米澤紋三郎

更新日:2021年02月01日

やせ型で面長、七三分けに丸眼鏡で、白く長い鼻髭と顎鬚を蓄えた男性が映っている白黒の肖像写真

米澤紋三郎は、安政4年(1857年)、入善町の大地主米澤家の次男として生まれる。幼名は、随作。富山藩の儒者岡田呉陽の塾に学び、17歳にしてその塾頭となる。西米澤家の養子となっていたが、明治14年(1881年)1月、兄の8代目紋三郎の急逝により、復籍。9代目紋三郎として家督を継ぐ。

紋三郎は、精魂を傾けて「分県之建白」を起草。同年9月、入江直友とともに上京、岩倉具視、山縣有朋、山田顕義らの政府要人に粘り強く陳情を重ねた。その結果、明治16年(1883年)5月9日、太政官達が発せられ石川県からの分県が決定し、富山県が誕生した。

県内屈指の豪農であった米澤家ではあるが、県政界のリーダーとして分県運動などに多額の私財を費やしたため家政が傾き、明治20年(1887年)に紋三郎は、負債整理のため一時公務を辞した。しかし、その後、明治36年(1903年)には、衆議院議員に最高点で当選を果たすなど、国政にも参加した。

富山県の生みの親として県政に尽くした功績は大きく、永く県民の讃えるところである。

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